前篇 あれから8年 ...3月11日を迎えて
8年前の3月11日、私は教員として勤務していた学校で2:46を迎えました。
ただ事ではない揺れに驚き、揺れが収まり次第、テスト期間直後のため部活動のために校内にいた生徒たちとグランドに集合し、生徒の点呼をして、学校の管理職の先生方の指示を待ちました。
やがて、最寄り駅のある京急線を含むすべての電車がストップしていることが分かり、保護者が迎えに来て帰ることが出来る者以外は校舎内で一晩を過ごすことが決まりました。
教員という仕事は、生徒を置いて私生活を優先することはできないものだと(今更でしたが)改めて思い知る機会になりました。
妻とはどの時点で連絡が取れたのかは覚えていませんが、LINEはまだなく、メールで連絡を取ったと思います。どれくらい不通の状態が続いたのかは覚えていません。が、どこかの時点で家族は無事なことが分かり、停電の中それぞれ一晩を過ごすことに不安を覚えつつも、怪我もせず守られたことに安堵しました。
数百人の生徒たちと数十人の同僚の先生とともに、 学校内に備蓄していた食料で夕食を済ませ、十数人ごとに各教室に分かれて就寝する生徒を、教員が交代で見守るという夜を過ごしました。
夜になり、教員室でテレビをつけると、テレビの報道で、大きな津波が起こって東北地方の沿岸部か壊滅的な被害を受けたことを知りました。
地震による被害や火事の様子の映像、テロップでは津波による死者の数が映し出され、これは映画か?ドラマを見ているのか?と思うほどの惨状にただただ唖然としました。
これは、今まで経験したことのない大災害が起きたのだ、ということに改めて気づかされました。
何とか朝を迎え、備蓄の食料の中から軽い朝食が配られ午前中には電車が復旧したので、生徒を方面別に分け、数人の教員がついて帰宅するという処置を取り、駅まで生徒を引率して、そこで分かれ、私も帰宅しました。
その後の学校行事は言うまでもなくすべてキャンセル。終業式も見送られた気がします。3月の末にようやく登校日が設けられ、年度末を迎えました。
あれから8年。
私はその翌年2012年3月に退職し、アメリカの聖書学校で3年間の学びに進みました。
(続く)